二天古武道研究所
剣道家の岸川ジョージが1993年にサンパウロで創立した武術団体。ブラジル、アルゼンチン、チリ、メキシコ、ウルグアイ、コロンビア、ポルトガル、アメリカに71支部、1200人以上の生徒を有する。剣術、居合術、杖術、鎖鎌術、十手術、薙刀術、槍術、棒術などを指導し、古流の技を実戦で用いる独自の武術「実戦剣術(Kenjutsu Combate)」の普及と、日本文化やサムライの精神の継承を目的に活動している。
岸川ジョージ
1963年4月24日サンパウロ生まれの日系ブラジル人(2世)。二天古武道研究所代表。全ブラジル古武道連盟所長。ブラジル人で始めて剣道教士7段を取得。宮本武蔵の兵法「二天一流」免許皆伝。サンパウロ連邦大学医学部卒。スポーツ専門医。
7歳のときから剣道の修練を積み、全ブラジル剣道大会で優勝15回、1977年に武道館で開催された全日本剣道道場連盟主催の国際少年剣道大会で個人・団体競技ともに3位に入賞。1988年、世界剣道選手権大会にブラジル代表の主将として出場。1985年、1991年、同大会に副主将として出場。
小学生高学年のころ日本に住む祖父母が送ってくれた宮本武蔵や戦国武将についての本を読み、サムライの哲学や古流の技への関心を深めていった。大学在学時に学友たちに剣道と居合道の手ほどきしたことが後に二天で古武道を指導するきっかけとなる。
1993年、大学を卒業し医者となり、同年、二天古武道研究所を創立。「大切なのは試合に勝つことよりも幸せな人生を歩むこと」とし、稽古後には自身の経験に基づく教訓やサムライの教えについての講話を行っている。また、古流の技を試合で用いる「実戦剣術(Kenjutsu Combate)」を考案し、専門であるスポーツ医学の知識をもとに安全に配慮した指導を行っている。
二天での活動に加え、テレビに出演し古武道やサムライ文化を紹介するなど、ブラジルでの日本文化の認知向上に貢献してきた。その普及と継承の功績を称えられ、3つの州と5つの市で岸川の誕生日である4月24日が「サムライの日」として制定されている。また2004年以降、南米諸国、アメリカ、ポルトガルにも支部を設け、ブラジル国外においても古武道の普及に取り組んでいる。
著書に計3万2千部の売り上げを記録した『Shinhagakure, Pensamento de um Samurai Moderno(新葉隠―現代武士の心得―)』(2004年出版。2010年、2016年改定)がある。2018年、英語、スペイン語版を刊行。また、宮本武蔵の兵法書『五輪書』のポルトガル語訳本の出版を予定している。
二天創立時より日本の武術家のもとで修業を重ねており、岸川が学んだ代表的な流派を以下に紹介する。
免許皆伝
兵法「二天一流」(流祖、宮本武蔵:1584年~1645年)
二刀神影流鎖鎌術
免許
天真正伝香取神道流(飯篠長威斉家直:1387年~1488年)
神道夢想流杖道(夢想権之助)
水鷗流居合剣法(三間与一左衛門景延:1577年~1655年)
戸山流抜刀道(中村泰三郎)
一心流鎖鎌術(念阿弥慈恩)
一角流十手術(松崎金右衛門重勝)
夢想神伝流居合術、関口流居合術、駒川改心流、小野派一刀流、越後流、田宮流、戸田派武甲流、直心影流、無双直伝英信流
歴史
二天の創立
二天古武道研究所(Instituto Cultural Niten)は1993年5月3日、剣道家の岸川ジョージによってサンパウロで創立されました。
創立のきっかけとなったのは、サンパウロ連邦大学で医学を学んでいたとき、学内の体育館で数名の友人に剣道と居合道を指導したことです。稽古後、岸川は自身が剣道から得た学びやサムライの教えが、試験への心構えや患者との接し方に役立っていると話しました。友人たちは熱心に聞き入り、ときには稽古をするよりも岸川の話を聞きたがりました。岸川はこのとき、厳しい稽古以上に幸せに生きるための手がかりが求められていること、そして自分の武道の経験やサムライの教えが社会生活全般に生かせることに気づきました。
大学を卒業し、医者になった岸川はサンパウロ市内に二天古武道研究所(Instituto Cultural Niten、以下、二天)を立ち上げました。「Niten(二天)」は宮本武蔵が編み出した兵法「二天一流」に、「Cultural(文化)」は「日本文化、サムライ文化」に由来します。また、技術に基づく継続的な学びと研究を提供するという方針から「道場」ではなく「Instituto(研究所)」という名称にしました。
幸せな人生を歩むために
二天は試合に勝つことや、昇段することに重きを置いていません。岸川はブラジル剣道の頂点を極めたと同時に、試合や稽古ばかりして常に勝ち負けにこだわっていると人生について考える余裕がなくなることを知りました。そして、最も大切なことは幸せな人生を歩むことであり、そのためには精神を高め人間として成長する必要があると考えました。
岸川はブラジルと日本での経験、剣道の選手と指導者としての経験、民間医と陸軍医、また経営者としての経験を持ち合わせています。稽古後にはそれらの経験に基づいた教訓や、日本やサムライの文化について生徒たちに話すようにしました。ときには日本の武術の先生から聞いた人生の話や戦中体験も紹介します。この稽古後のおよそ15分間の講話は「教貴一期(Momentos de Ouro)」として創立から現在まで続けられていて、国外や遠方の支部では講和の映像が観られています。
「実戦剣術」
また、岸川は古武道とも剣道とも違う、全く新しい武術の創造に意欲を燃やしていました。古武道は多様な古流の技を持ちますが、稽古は形の反復練習のみで試合を行いません。一方、剣道は試合をしますが、全日本剣道連盟が定めた形だけを用います。岸川は古流の技を実戦に取り込む武術を編み出し、これを「実戦剣術(Kenjutsu Combate)」」と名付けました。
「実戦剣術」では剣道では使われない技が多く存在します。例えば、添え手技は刀の峰に左手を添える技の総称で、刃部を支えて精度を高めるとともに、近間(鍔迫り合い)でも効果を発揮します。また、内小手は下からの切り上げにより小手の内腕部を狙うもので、打つのではなく切るような動作をします。これらに代表される古流の技の中には、時を経ていく中で実戦に適さない形に変化してしまったものもあり、岸川は何度も技を試し改善を加えることで現代に蘇らせています。
安全面の配慮
二天では「安全第一」を掲げ、健康を促進し、稽古を長年続けられるよう指導しています。スポーツ医学の専門医である岸川は、40年以上に渡って剣道の修練を積んだ経験から、練習すればするほど身体に負荷が蓄積され、それがケガや痛みにつながると考えています。例えば、剣道の構えは右足が常に前に出ていて、踏み込みを繰り返すと右の膝やかかとに大きな負担がかかります。二天では左足を前に出す古流の構え(文字構え)を使用するので、負荷を分散して稽古を続けることができます。
また、剣道の突きは相手の喉の辺りに竹刀を当てるだけではなく、後方まで押し込まないと有効打突として認められません。岸川は多くの師範たちが長い間突きを受けすぎて首に痛みを抱えていることを気にかけていました。そこで、二天では剣道と同じような後ろに押し込む突き方を禁じました。
上記の突きによるダメージや、面を受けることで脳や頭蓋骨が損傷する危険、折れた竹刀が目に刺さる危険から守るため、首、頭、目に装着する特製のサポーターとプロテクターを使用しています。
これらの安全面の配慮はいくら一生懸命稽古をしても健康でなければ幸せから遠ざかるという考えによるものです。人間としての成長を促す方針や、「教貴一期」、「実戦剣術」、「安全第一」を総称して「KIR(剣能力開発)メソッド」とし、これを二天における基礎としています。
ブラジル全土への展開
二天は1993年、サンパウロ市内の教会の大広間を利用して活動を始めました。当初生徒は2人だけでしたが、テレビや雑誌などのメディアで紹介されて段々と増えていきました。多くの生徒は武道精神の奥深さや日本式の礼儀作法に関心を持っていました。また、剣道や柔道などの経験者も多くいて、彼らは他の武道に無い二天独自の方針に共感していました。
創立から4年が経った1997年にはサンパウロ州外からも稽古に参加する生徒が数名いて、ブラジル南部リオグランデ・ド・スル州在住の生徒はバスで20時間かけて通っていました。そこで、2つ目の支部をリオグランデ・ド・スル州の州都ポルト・アレグレに新設します。バスで通っていた生徒が指導者を務め、各所でデモンストレーションを披露するなどの広報活動を行い、生徒を増やしていきました。
3つ目の支部は2000年にリオ・デ・ジャネイロに設立されました。この年から年に2回、全支部が参加する大会を開催しています。日頃の成果を試す機会ではありますが、勝ち負けにこだわらず皆が集まって親睦を深めることを主な目的としています。その後、2003年までに13支部が新たに設立され、着実に規模を拡大していきました。
2004年、サムライの生き様をテーマにした映画『ラスト・サムライ』が大ヒットを記録し、二天が世に広く知られる転機が訪れます。岸川が著名な司会者ジョー・ソアレスの人気トーク番組『Programa do Jô』に呼ばれサムライ文化や武士道を紹介したことで、関心を持った人からの問い合わせが殺到。生徒数はそれまでの2倍以上の400人に増え、初めてブラジル国外のアルゼンチンに支部を設置するなど、この年だけで8つの支部を新設し全23支部となりました。また、岸川はこれまでに3回、『Programa do Jô』に出演しています。
この年から、遠方の生徒たちが岸川の話を直接聞けるように全支部合同の合宿を開催しました。岸川は医者との二足の草鞋で多忙を極め、段々と医者の仕事を減らし二天の活動に注力。二天はさらに活動の幅を広げます。
著書の出版
2004年、岸川はポルトガル語の著書『Shinhagakure, Pensamento de um Samurai Moderno(新葉隠―現代武士の心得―)』を出版。稽古後の講話「教貴一期」をまとめたもので、題名は佐賀藩士の山本常朝が武士としての心得を伝えた書『葉隠』にならいました。出版当時、二天はブラジル中に支部を有し、岸川はすべての生徒に直接指導することの難しさを感じていました。そこで、同書を全国の指導者や生徒にとっての手引書としました。岸川は「新葉隠は技術書ではない。いかに生きるかについて書いた」と話しています。「サムライの哲学」が現代社会の指針になるとして正義や勇気、忍耐などついて説き、二天と関わりを持たない読者からも大きな反響がありました。2010年により一般向けに加筆して出版し、2016年にはさらに増補改定し上下巻で刊行。これまでに計3万2千部の売上げを記録し、2018年には英語・スペイン語版も出版されました。
「サムライの日」の制定
岸川は二天の代表として精力的に活動を続けたことで多数の表彰を受けています。2007年には古武道と武士の哲学の普及に向けた努力が称えられ、サンパウロ市が岸川の誕生日の4月24日を「サムライの日」に制定しました。「サムライの日」は古くからのサムライ文化と、ブラジルの発展に尽くした日本移民の敢闘精神を象徴する日です。 「サムライの日」はその後、サンパウロ州内ではピラシカーバ市、リベイロン・プレット市、カンピーナス市、グアルーリョス市、そしてパラナ州、アマゾナス州、サンタカタリーナ州でも制定されました。
岸川は他にも日本人のブラジル移住100周年となった2008年に日系有識者の一人としてプラナルト宮(大統領官邸)に招かれ、徳仁皇太子殿下参列の元「百周年記念メダル」を授与されています。
社会活動
二天はこれまで様々な社会的支援を行っています。子供たちに規律や礼節などの教育の機会を与えることを目的に、2011年から2014年にかけてサンパウロ州グアルーリョス市のスラム街(favela)で古武道を指導しました。2014年以降は青年部「隼」がサンパウロ、ポルト・アレグレ、リオ・デ・ジャネイロ、ブラジリアで立ち上がり、介護福祉施設での実演や児童福祉施設への玩具の寄付、公共プロジェクト(飢餓対策など)への支援などを行っています。これらの活動は「隼」のメンバーである若い生徒たちに、稽古だけでは得られない人間としての成長を促しています。
また、経済的な理由で稽古に参加できない生徒や公立の学校に通う生徒に対しては、月謝の支払いを免除する制度を設けています。この制度はブラジル国内外全ての支部で適用され、2018年4月時点で85人がこの制度を利用しています。
日本との交流
2004年には日本杖術会の神之田常盛師範を招いて、杖道、鎖鎌、十手のセミナーを開催しています。
また、岸川は二天創立時に大分県を訪れ兵法「二天一流」10代師範の五所元治氏から教えを受け、2005年に免許皆伝を受けました。現在も毎年日本に訪れ、剣術のみならず、居合術、杖術、鎖鎌、十手、薙刀術、槍術、棒術など多様な武術の修行に励んでいます。近年は生徒を引き連れることもあり、貴重な日本での修行を後継の育成機会につなげています。
20周年記念式典
2013年8月16日、創立20周年祝う記念式典がサンパウロ州議会で開催されました。議会での開催は日系人議員の羽藤ジョージ州議とウィリアン・ウー元連邦下議の提案により実現しました。関係者300人が会場を埋め、盛大に執り行われました。20年の歩みをビデオで上映し、二天の発展に協力した関係者への感謝状の贈呈を行いました。また、連邦下院から岸川にこれまでの功績をたたえる表彰盾が送られ、二天の活動がブラジル政府に認められた記念すべき日となりました。
二天における教育指導
「会社も学校も競争社会だ。せめて二天では競争心を捨てて、自分の人生とじっくり向き合ってほしい」。そういった思いから、岸川は稽古後の講和「教貴一期」で「幸せな人生の歩み方」を説き続けました。当初、人生の悩みが多い大人にだけに説くべきだと考えていましたが、大人は多かれ少なかれすでに世間の影響を受けてしまっていました。そこで、子供のころから生き方についてじっくり考えることが必要だと思い直し、2004年に子供向けクラスを開始。将来、困難に直面したときや人生の岐路に立ったときに、迷わずに乗り越えらるよう指導しています。また、大会の子供の部では、参加した全員にメダルを与えます。これはひとりひとりの努力を認め、自分に勝ったことを称えるからです。
合宿では山の中でのキャンプや、1時間に渡っての整列・行進を行います。これらは岸川が陸軍医の経験から取り入れたもので、集団行動をすることでチームワークを養うことを目的にしています。また普段から、大人、子供を問わず、挨拶、返事を徹底させ、遅刻は厳禁です。ブラジルでは親が子に甘いことが多く、生徒たちが私生活でも規律を守って行動できるように指導しています。
25周年を迎えて
2018年に創立25周年を迎えた二天はブラジルのみならず、国外にも古武道の精神を伝え続けています。現在は国内とアメリカ、アルゼンチン、チリ、メキシコ、コロンビア、ウルグアイ、ポルトガルに71支部を有し、生徒数は1200人、これまで稽古に参加した人数は2万5千人を超えます。10月には25周年記念式典を行い。併せて「第1回世界剣術大会」を開催。世界中から二天の生徒が集い、これまでで最大規模の大会になる予定です。
岸川は古武道の技を実践に取り込んだ「実戦剣術」を武術以外の分野にも生かせると考えています。例えば二本の刀で攻める二刀流は、サッカーであれば両サイドから相手を制する戦法に通じています。他の構えにも様々な意味があり、それらはスポーツだけでなくビジネスや生活全般に応用でき、岸川はこの「人生の兵法」をさらに磨き上げることを目指しています。
大きな発展を遂げた現在でも、「最も大切なことは幸せな人生を歩むこと」という理念は変わりません。創立したばかりのころ、ブラジルの剣道界は国を代表する剣道家にもかかわらず転身した岸川を異端とみなしていました。しかし、多くの生徒たちに支持される今、情報の海に溺れ、自分をコントロールすることが難しい現代社会だからこそサムライの教えが生きるという確信を持っています。二天は「幸せになる人生の歩み方」を伝えるという信念のもと、これからも活動を続けていきます。